佐坪八幡神社は長生郡長南町にあります。創建は749年(勝宝元年)で、古くは鎌倉領であったと言う。1180年に石橋山の戦いに敗れた源頼朝が、佐坪八幡宮に白旗一流を献じ、武運長久を祈ったと言われている由緒ある神社である。旧社格は郷社。

基本情報
佐坪八幡神社 | 旧郷社 |
住所 | 長生郡長南町佐坪657 |
電話 | なし |
拝観時間 | 自由 |
拝観料金 | 無料 |
御祭神 | 品陀和気命 (ホムダワケノミコト) |
創建 | 749年(勝宝元年) |
御朱印 | なし |
祭礼 | 10月15日(例祭) |
駐車場 | あり |
トイレ | なし |
アクセス | 小湊鉄道上総鶴舞駅から 徒歩2時間10分 |
社務所前に駐車場があります。

鳥居

佐坪八幡神社の由緒書

長南町指定有形文化財 八幡神社社殿 本殿一棟 拝殿一棟 昭和五十五年四月一日指定 社伝にもと八幡宮と称し、第四十六代孝謙天皇の勝宝元年(七四九)二月創建、古くは鎌倉領であったと言う。治承四年(一一八〇)には源頼朝、石橋山に敗れ、海路房州にのがれたおり、八幡宮に白旗一流を献じ、武運長久を祈ったと言われている由緒ある神社である。 現在の社殿は、天保15年(一八四四)八月再建されたが、拝殿は、明治三十五年九月の台風に境内の大杉が倒れ、倒壊したため、復元修理を行っている。 両棟ともに全体を白木造り、軒は二重繁棰かつては重厚な茅葺屋根であったが、現在は鉄板瓦棒葺屋根である。 本殿 正面三間、側面二間の三間社流造で、柱は八角柱、正面三間には板唐戸をつけ、側面一間は、まばら舞良戸・後一間を羽目板壁とし、大床に高欄を設け、獅子を刻んだ脇障子をたて、腰組を重ねている。内部は、一間通を外陣とし、後部一間を一段高くして内陣とする。 向拝は几帳面柱・海老虹梁・登高欄を付けている。 拝殿 正面五間、側面三間の入母屋造り、柱は円柱で、切目縁に唐破風の向拝を付け、海老虹梁を架し、几帳面柱をたてる。 身舎・向拝及び手挟等各部に美事な彫刻が施されている。 各部に、竜を中心とした獅子・麒麟・鯉・花・鳥の彫刻及び、組物・蟇股・木鼻・尾棰・虹梁・懸魚等、本殿・拝殿共に町内随一の建築規模による、江戸末期の華麗な神社建築様式に特色がある。 <境内立看板より> |
石段

手水舎

拝殿

狛犬


向拝の彫刻

羽目板

左側から見た拝殿・本殿

本殿

本殿の彫刻

右側から見た拝殿・本殿

愛宕神社

境内社

佐坪八幡宮の由緒書

佐坪八幡宮
治承四年(一一八〇年)源頼朝は、平家討伐の兵を挙げたが、相州石橋山の戦いに敗れ、旧臣安西景益を頼り海路安房に逃れた。同年九月三日、鴨川貝渚の民家に宿泊したおり、土地の豪族長狭六郎常伴の夜襲にあい、網元の仁右衛門が小島にかくまったという仁右衛門島の伝説がある。
同年九月十三日、部下の和田義盛を上総の豪族、平広常の許に援軍を請うため遣わしたがこれに応ぜず。同村に広常の一子、長南太郎重常が居住していると聞き密かに人を遣わし、八幡宮(佐坪八幡宮は地方稀に見る古社であり源氏崇敬の武神でもある)に白旗一流を献じ、武運長久を祈り重常宅に赴き父広常を説き、源氏再興に援軍を申し込む。広常は重常に説得され兵二万騎を率いて加勢し、隅田川で源氏軍と合流する。
尚、鴨川には頼朝が和田義盛を待ちわびた所という待崎、その時源氏の白旗を掛けたと言う旗掛けの松(現在は枯死し古株は、ほこらに安置されている)等多くの伝説が残っている。又、佐坪字古御所、御天谷津は長南太郎重常の居住の旧跡と言われている。
元禄 十五年(一七〇二)石段造営
寛政 十一年(一七九九)社殿改造
天保 十五年(一八四四)社殿再建
佐坪の鎮守とする
明治 三十五年 台風で大杉が倒れ
拝殿倒壊 復元修理
明治 三十九年 神選幣帛料供神神社
に指定
昭和 十九年 郷社に列格
昭和 五十五年 社殿 長南町指定
文化財となる
平成 四年 社殿 拝殿屋根銅板
葺替え
平成 十一年 鳥居 石段 社務所
改築
平成 三十一年 鳥居改築
令和 元年 縁起書改築
佐坪区
<境内立看板より>
創建は749年ですが、源頼朝ゆかりの神社で、古くは鎌倉領であったとは知りませんでした。
拝殿と本殿には彫刻がたくさん施され見応えがあります。
社殿は長南町指定有形文化財。
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