小浜八幡神社

小浜八幡神社

小浜八幡神社はいすみ市の八幡岬にあります。御祭神は譽田別尊で、いすみ市新田野の生島八幡神社を勧請して久安元年(1145)の創建と伝わります。社殿のある岬は3方を海に囲まれた風光明媚な立地で多くの文化人が訪れました。

Screenshot

基本情報

小浜八幡神社通称小浜八幡様
小浜3社の一社
住所いすみ市大原10439
電話不詳
拝観料金無料
拝観時間24時間
祭神譽田別尊
創建1145年(久安元年)
御朱印なし
祭礼9月23・24日
(大原はだか祭り)
駐車場専用の駐車場はないので
大原漁港の駐車スペースにとめる
(港から徒歩3分)
トイレあり
アクセスJR外房線大原駅から徒歩15分

神社専用の駐車場がないので、漁港の一番東寄りの堤防近くに車をとめます。

景勝地 小浜八幡岬 の看板があるよ。

徒歩2分で神社入口に着く。

小浜八幡様は3方を海に囲まれた岬に鎮座している。

一の鳥居

向かって左側の鳥居の柱には「昭和十二年」とあり、右側の柱には「平成元年一月吉日」とある。

不思議に思い柱の下の方を見てみると理由が書かれていた。

 昭和六十二年十二月十七日午前十一時八分房総沖に地震発生、即ちマグニチュード六、六、震度四の結果柱の下部が折損す故に危険の為一時解体す。其の後新規に柱を取り換えて、再建す。
奉納 氏子一同

なるほど、理由がわかりました。

鳥居のすぐそばに「頂上に 俳人貞雄翁句碑有り」と書かれた石碑があった。

数多くの詩人がこの地を訪れています。

城跡ということもあり石垣が残っている。

階段を登った右側に、あずまやとトイレがある。

新しくてキレイだよ。

二の鳥居

狛犬

狛犬は昭和十二年十月の奉納。

参道をすすむと右側に「大原はだか祭りの由来」について書かれた看板が立っている。

 旧大原の秋祭りは、旧暦(太陰暦)の江戸時代は八月十五日でした。しかし、明治六年から新暦(太陽暦)となったことで、旧暦の八月十五日は新暦の九月二十三・二十四日頃にあたるので、この年から改められ現在に至っています。
 氏神の御祭礼は、その時代によっての政治、経済、社会等の背景から所産されるものです。温かい政治や、豊かな経済社会からは華やかな御祭礼が生まれ、厳しい政治、貧しい経済社会では、淋しい御祭礼となってしまうことは必然となります。
 寛政二年(1790年)に出た覚書の中には、
 「地持百姓が身代丈夫に取り続き農業に精を出して御年貢を滞りなく上納するのが御国体の基である」と記されてあります。また、当時の藩主が出した御触書(おふれがき)には「祭礼を結構にしてはいけない」と書かれております。
 当時の御祭礼の唄に、
 ”祭りが来たとて嬉しゆはないが 小豆茶の粉に南瓜汁”
 ”祭りが来たのに褌は切れる 嬶(かかあ)は子を生み銭はなし”
文政年間の祭唄でありますが、生活感情が端的に表現されており、当時の農民の暮らしがよく覗 われます。また、
 ”太東沖から飛んでくる鴎 明日も大漁で飛んでくる”
 ”鴎きて鳴けない小浜の浜に 今日も大漁の旗の波”
 文化年代(1804〜1818年)の祭唄でありますが、この唄に象徴されるとおり、大漁だけが唯一で最高の願望であった、郷土大原の漁民の歴史を物語るものであります。
 当時の幕府や藩主の厳しい法令・制限下であっても、鎮守の御祭礼を勇ましく、おおらかに、且つ伸び伸びと、稲穂の波の中を渡行し、或いは潮踏の行事などをし、また時には代官所や陣屋に神輿を担ぎ入れて、年貢の減免を申し立てたという記録も残っています。

<境内立て看板より>

大原はだか祭りの一コマ

参道の正面の建物は社務所

小浜八幡神社御遷宮記念碑

記念碑の後ろからの眺めも素晴らしい。

大原漁港と太東岬

城山地区の街並み

参道はまだ続く。

御神燈

手水舎

記念碑と洞窟

となりの洞窟は、お稲荷さん。

洞窟の上には浅間神社

左の石碑には青龍大権現、右の石碑には八海山大神三笠山大神とある。

御神燈と三の鳥居

手前の御神燈は延享元年(1744年)の奉納。

三の鳥居

三の鳥居は天保三年(1832年)の奉納。

三の鳥居をくぐると、左右に遊歩道が整備され、八幡岬を一周できる。

左側の遊歩道(北側)

右側の遊歩道(南側)

写真の右下に見える小さな砂浜は丹ヶ浦(地元では、タグリヤと言う)、その先にはリヤス式海岸続く。

遊歩道は後のお楽しみにして、参拝を続けます。

神輿蔵

大きなイカリが置かれている。

航海の安全と大漁を祈願したのでしょう。

拝殿

向拝の彫刻

木鼻

八幡神社と書かれた扁額

小浜八幡神社を象徴する赤色ののぼり旗

参拝を終えたので遊歩道へ行きます。

左側(北側)から回ります。

大原漁港と太東岬

休憩しながらゆっくり海を眺めます。

青い海と青い空、水平線に船が見える。

大原漁港と街並

季節により花が楽しめます。

岬の先端部分は崖崩れの危険があるため侵入禁止。

ちょうどこの反対側に上り階段がある。

俳人貞雄翁句碑

句碑の前にいるのは「キョン」、最近房総半島で増えています。

民家の庭に普通に現れるのでびっくり。

これから先は南側の遊歩道で戻ります。

文化人たちが愛した景色です。

三の鳥居まで戻ってきた。

帰りは小浜城跡に寄ってみます。

手水舎の前から小浜城跡に降りれる階段があります。

かつて小浜城がありました。

芝生の広場がキレイに手入れされています。

ここからの眺めが素晴らしい。

何度もお伝えしている「丹ヶ浦(地元では、タグリヤ)」

お弁当持参で来ると良いね。

青年館

青年館と丹ヶ浦はかつてTVのドラマのロケで使われました。

CAFE BARと書かれた横長の建物は、お神輿を担ぐ棒が置かれています。

大原では「もうりん棒」と呼んでます。

大原地区のどこの神社にも必ずあるよ。

若山牧水の句碑

小浜城跡にある立て看板

 名勝八幡岬は、その形が帽子や鳶に似ているので帽山または鳶崎とも呼ばれている。
 房総治乱記によると、戦国時代ここに小浜城があり、城主は槍田美濃守であった。天正十七年(一五八八)二月美濃守が相州三浦に軍をすす目めて北條氏と戦った時、その虚に乗じて、勝浦城主正木左近大夫は小浜城を襲いこれを攻めとった。
 房州里見氏は援軍を送って小浜城の奪回を図ったが、攻め落とすことができなかった。無念に思っていた美濃守は天正十七年三月、夜陰に乗じて激しく城を攻め、ついにに奪還に成功した。しかし天正十八年、本多忠勝が大多喜城主になった頃、小浜城は本多氏に攻略されその姿を消した。

 この八幡岬には江戸時代より数多くの文人墨客が訪れた。儒者の安積艮斎、作家の江見水蔭、山本有三、歌人の佐々木信綱、矢代東村、画家の黒田清輝、竹久夢二など多彩な文化人が、この地を舞台にすぐれた作品を残している。
 ことに明治末期から終戦直後までこの地にあった帆万千館は文化人に愛され、若山牧水や鈴木信太郎などの諸家は好んでここに宿泊し景観をめでながら、この地の自然や風物を活写し創作にふけった。

大原町観光協会
大原町文化財保護協会

<小浜城跡の立て看板より>

若山牧水の句碑の奥に階段がある。

階段を登ると更に高い所から景色が一望できるよ。

大原の街並で、中央の奥が市役所と中学校。

先端には祠があった。

屋根の形からして富士山信仰、とすれば浅間神社。

その昔、天気の良い日はここから富士山が見えた?

勝手な妄想にふけってみた。

多くの文化人が訪れた「小浜八幡神社」、長い歴史の中で激しい戦があったこともわかりました。

外房観光にお越しの際は小浜八幡神社にぜひ足を運んでください。

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