良玄寺(大多喜)

良玄寺(大多喜)

良玄寺は大多喜にある浄土宗の寺院です。大多喜城主の本多忠勝は、菩提所として良信寺を建立して、下総小金東漸寺の僧了学を招き開祖としました。忠勝の後、二男の忠朝が城主になりましたが、大阪夏の陣で戦死し、忠朝の法名をとって良玄寺と改めました。

基本情報

良玄寺
住所夷隅郡大多喜町新丁180
電話自宅
03−3492−2030
拝観料金無料
拝観時間自由
宗派/山号・寺号浄土宗/金澤山・山王院・良玄寺
本尊・寺宝阿弥陀如来
創建1595年(文禄4年)
御朱印なし
駐車場あり(無料)
トイレとなりの忠勝公園にあり
アクセスいすみ鉄道・大多喜駅から
徒歩15分

大多喜町新丁の県道231号線にある小松屋農機商会さんの横をまがると正面に良玄寺があります。

参道手前の左側に地蔵菩薩がある。

めずらしく金のお地蔵様です。

駐車場入口

大多喜城主本多忠勝候・本多忠朝候墓碑の看板があります。

良玄寺 浄土宗

 天正十八年(一五九〇)十万石の領主として大多喜へ入城した本多忠勝は、菩提所としてここに良信寺を建立して、下総小金(現、松戸市)東漸(とうぜん)寺の僧了学(りょうがく)を招き開山とし、寺領に百石を寄進しました。
 慶長五年(一六〇〇)関ヶ原合戦の翌年に忠勝は、伊勢桑名へ移封となり、二男の忠朝(ただとも)が五万石で大多喜城主になりました。元和元年(一六一五)忠朝は大坂夏の陣で戦死し、甥にあたる政朝(まさとも)があとをつぎ、寺の名を忠朝の法名(ほうみょう)(戒名)をとって良玄寺と改めました。
 このてらを開いた了学は、のちに、飯沼弘経(ぐぎょう)寺(現、水海道市)を再興しましたが、忠勝没後、桑名に西岸(さいがん)寺を開いて、再び弘経寺へ帰りました。そののち寛永九年(一六三二)了学は、徳川秀忠に召されて江戸に入り、芝増上寺十七世となりました。
 寺に伝来する紙本着色(しほんちゃくしょく)本多忠勝画像は、特色ある武将の像としてすぐれた作品であり、県指定文化財になっています。
 また、境内にある忠勝・忠勝夫人・忠勝の五輪の墓碑や寺領寄進状などは、町指定文化財になっています。

 平成二年三月 
        大多喜町

<立看板より>

境内はとてもきれいに手入れがされていて、気持ちよく参拝できます。

本堂

金澤山と書かれた扁額

本堂内の様子

天井画

本多忠勝のお墓に行ってみます。

塀伝いを歩きます。

右側に公園が整備されている。

忠勝公園

忠勝公園

 大多喜城主となった本多忠勝は、文禄四年(一、五九五)下総小金(松戸市)東漸寺の住職了学  上人を招いて、菩提寺良信寺を建立し、寺領として百石を寄進した。
 墓地には本多忠勝、同夫人、次子忠朝の墓がある。忠勝は慶長十五年(一、六一〇)六十三歳で桑名また、一説には江戸で没したともいわれ、桑名浄土寺に葬られたが、分骨して建立したものである。
 忠勝夫人は、忠勝が桑名へ転封後もこの地に残り、慶長十八年(一、六一三)大多喜城で没したと伝えられている。
 忠朝は、大阪夏の陣で壮烈な戦死をとげ(時に三十四歳)大阪一心寺に葬られたが、分骨しここに埋め、その法号により良信寺は良玄寺と寺号を改めた。
 現在もこの墓所は、町指定文化財として残っており、平成十七年三月墓所に隣接した場所に公園が整備され、忠勝公園として、地域住民に親しまれ今日に至っている。

 (「大多喜町の歴史と史跡」より)

<立看板より>

東屋

トイレもある。

正岡子規の句碑

手入れがされていてきれい。

公園から大多喜城が見える。

公園の先を右に曲がる。

正面に本多忠勝のお墓があります。

真ん中が本多忠勝のお墓。

右が忠勝夫人のお墓。
左が忠勝の二男のお墓。

徳川四天王の一人として戦国時代を生き抜いた本多忠勝。

いつか大河ドラマの主人公になる事を夢見ます。

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