清澄寺(鴨川市)

清澄寺(鴨川市)

清澄寺(せいちょうじ)は鴨川市清澄にある日蓮宗の大本山。元は天台宗の寺院でしたが、1618年に真言宗に改宗、そして昭和24年に日蓮宗に改宗して現在に至る。日蓮聖人は、1253年4月28日の早朝(32歳の時)、清澄山の旭森山頂で朝日に向かってお題目を唱え立教改宗の宣言をした。

基本情報

清澄寺(せいちょうじ/きよすみでら)
日蓮宗四霊場の一つ
住所鴨川市清澄322−1
電話04−7094−0525
拝観料金無料
拝観時間
(本堂)
9:30〜16:00
拝観時間
(境内)
自由
宗派/山号・寺号日蓮宗/千光山・清澄寺
本尊・寺宝十界曼荼羅・虚空蔵菩薩
創建771年「不思議法師」により開山
御朱印あり(本堂脇の寺務所)
(有料・金額はお気持ちで)
駐車場(無料)県道81号線から清澄寺に向かう
坂の途中左側に2ヶ所
駐車場(有料)境内手前のドライブイン付近
トイレあり(境内と駐車場)
アクセスJR外房線・天津駅からタクシー15分

県道81号線の「大本山 清澄寺」の看板を曲がる。

坂道の途中にある門の左側に無料駐車場がある。

駐車場から仁王門までは徒歩10分。

さらに坂を上ると左側に2つ目の無料駐車場、トイレもあるよ。

ここから仁王門までは徒歩5分。

坂を上り切るとドライブインがある。お店の近くにある駐車場は、ドライブインが管理する有料の駐車場。仁王門まで徒歩2分。

仁王門前の駐車場は業者専用。

由緒書

千光山 清澄寺(日蓮宗)
 創建 宝亀二年(七七一)
 開基 不思議法師
 由緒 当山は、天台宗の寺として開創され、平安時代に至って、慈覚大師円仁が僧坊十二、祠堂二十五を建て、房総第一の大寺となりました。江戸時代の初期、仲恩房頼勢法師が家康公の帰依を得て再興し、これより真言宗の寺となり、格式十万石、朱印五百石を賜り、本山格の寺になりました。また、京都醍醐三宝院の別院となったため、菊花の御紋章を許されました。
 摩尼殿 奉安の虚空蔵菩薩は、智慧福徳の菩薩として名高く、その像は、日本三体虚空蔵の一つです。
 日蓮宗の開祖日蓮聖人は、天福元年(一二三三)五月十二日十二歳のとき、小湊からこの寺に入り、道善法師に師事し、出家得度しました。勉学修業に励んだ聖人は更に諸国に出て、各宗の奥義を学び、建長五年(一二五三)四月二十八日三十二歳のとき当山旭が森で立教開宗の第一声をあげました。
 聖人ゆかりの当山は、昭和二十四年二月、日蓮宗に開宗しました。

<立看板より>

仁王門

扁額には「清澄寺」。

仁王門は1863年の建立。

金剛力士像

右の口開けている阿像は一切の法の最初を表し、左の口を閉じている吽像は一切の窮極を表す。

門をくぐり振り返ると、扁額には「千光山」。

手水舎

札所

休憩所

正面が本堂(大堂)、右側の手前が観音堂でその奥が鐘楼堂。

鐘楼堂

祖師堂

祖師堂は日蓮聖人聖誕750年慶讃事業として昭和48年に建てられた。お万の方の奉納とされる日蓮聖人像が祀られています。

本堂(大堂)

現在の本堂は17世紀後半のものです。

お堂の中央には虚空蔵菩薩、その両側には日天子、月天子を祀る。

本堂は16:30に閉堂だけど、参拝はその後もできる。

扁額は「摩尼殿」(まにでん)

向拝の彫刻

木鼻

「清澄寺本堂の彫刻」
 所有者 清澄寺
 製作者 嶋村唐四郎(推定)
 制作年 享保十六年(一七三一)頃

 清澄寺本堂には数多くの彫刻がとり付けられています。懸魚(げぎょ)には「鳳凰」、向拝には「蓬莱島」と愛染明王の台座、柱の左右の木鼻には「獅子と象」、そして、東西の破風には、阿吽の「力士像」一対が飾られています。
 本堂内の厨子の彫刻の裏面には「享保十六年辛亥(かのとい)年二月日武江彫物大工嶋村唐四郎」の墨書銘が判読されることから、江戸の嶋村家三代目を継いだ唐四郎が、享保十六年(一七三一年)に彫刻類の制作を担当したことが確認されます。同時期に本堂向拝及び東西破風の彫刻を唐四郎が制作した可能性が高いものと推測されます。
 妙見信仰と関わりの深い亀の背中に松竹梅が茂る蓬莱島、愛染明王が腰掛ける甕(かめ)から四方八方に宝珠が飛散する図柄など、寺社彫刻としては類例のない題材が採られています。これらは、江戸時代の頃の清澄寺を取り巻く宗教環境が背景にあるものと推測されます。

 平成二十八年三月十五日
 鴨川市の文化遺産を活かした地域活性化実行委員会

<立看板より>

おみくじ(200円)

厄割玉(やくわりだま)200円

購入した厄割玉は、階段降りて左側にある厄割石に向かって投げ割り、厄災、災難を祓う。

本堂の中には入れません、撮影も禁止。

本堂右横の寺務所で御朱印がいただけます。

御朱印料はお任せです。

庫裡の前の鐘楼

この梵鐘には明徳三年(1392)の銘が入っています。

この梵鐘の先を左に登る階段があります。

階段を上ると稲荷堂がある。

坂の途中、本堂破風の「阿吽の力士像」の阿像が見える。

中門

清澄寺中門の説明書

清澄寺中門
 この門は、「中門(ちゅうもん)」と呼ばれ、清澄寺縁起によりますと、正保四年(一六四七)に創作され、天保八年(一八三七)に改修されています。
 構造形式は、一門一戸の四脚門で、屋根は茅葺きの切妻造(きりつ”まつ”くり)りです。主柱は冠木(かぶき)をもってつなぎ、主柱上には平三斗(ひらみつど)を置き、実肘木(さねひじき)で妻虹梁をささえ、その上に背の低い大瓶束(たいへいつ”か)を立て、更に平三斗を置いて棟梁(とうりょう)をかけ、正面冠木の上の虹梁中央にのみ本蟇股を置いてあります。
 主柱の左右に袖板(そでいた)をつけ、正面右側にのみ通路用の小さな扉がつけてあります。
 軒は二軒につくり、妻軒(つまのき)については、深くしてあり耐湿、防風への効果を考慮していることがうかがえます。
 様式は、和様を主とした折衷様式で、江戸時代初期の建築物としては、彫刻などの装飾も少なく簡素な美しさがあります。この美しさは、天保年間の改修の際も損なわれることもなくのこっています。
 昭和三十九年四月二十八日に、千葉県指定有形文化財となりました。

<立看板より>

清澄の大クス

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大クスの根本にある宝篋印塔

この宝篋印塔は室町時代の特徴がよくあらわれていて、1407年頃の作と推定される。

宝物殿

日蓮聖人七百遠忌記念事業として昭和56年に建設されました。

日蓮聖人ゆかりの品々が展示されている。

拝観料は、大人300円、小人100円。

本院

平成29年4月に完成。旧本院の趣を残した造りになっている。

梵鐘

梵鐘の説明書

千葉県指定有形文化財
「梵鐘(明徳三年在銘)」
  所有者 清澄寺
  材質  銅
  指定  昭和三十九年四月二十八日

 この梵鐘の大きさは、高さ123、2cm,口径66、7cmで、三段組みで鋳造されています。県内でも文化財に指定されている梵鐘では、二番目に大きいものです。
 乳は4段5列あり、鐘の上部にある上帯には優美な飛雲文を、下部にある下帯には、唐草文を施しています。2個の撞座(つきざ)と竜頭(りゅうず)は平行して位置していますが、ともに壊れていて元々あった蓮華紋様は不鮮明です。
 池の間の第一区には「房州千光山清澄寺者」で始まる銘が刻んであります。第三区には「明徳三年八月」(1382)の年紀と、当時の清澄寺の別当が前大僧正法印大和尚弘賢で、源朝臣清貞、比丘明了、比丘恵闇が旦那となって寄進したことや、この梵鐘の鋳造に携わった「武州塚田道善」の名前が刻んであります。
 銘文には、清澄寺が慈覚大師の草創になることや、その時以来の梵鐘が壊れてしまったために、新たに鋳造が行われたことなどが記されています。
 平成二十九年三月三十日
 鴨川市教育委員会

<立看板より>

清澄寺石造宝篋印塔

宝篋印塔説明文

千葉県指定有形文化財
「清澄寺石造宝篋印塔」
  所有者 清澄寺
  材質  石(蛇紋岩)
  指定  昭和四十年四月二十七日

 この宝篋印塔は、高さ157cmで、地元の嶺岡山系で産出する蛇紋岩(じゃもんがん)を用いて作られています。
 塔身の四面には、正面が半肉彫りの金剛界大日如来坐像、他の三面は、開敷華王(かいふけおう)・無量寿(むりょうじゅ)・天鼓雷音(てんくらいおん)の各如来種子(しゅじ)が刻まれています。
 基礎には応永十四年四月(1407)の紀年銘が刻まれており、造立年代や趣旨が明確であることから、県内の宝篋印塔の標識的遺品として位置つ”けられています。
 塔身の上に乗る笠の隅飾りがやや外傾し、相輪は線刻で九輪が表現されます。反花(かえりばな)や請花等にも時代相がよく示されています。
 なお、本塔はその形態から関西様式に類別されます。制作には、大和の石工集団・橘派が関わった可能性が想定されています。
 平成二十九年三月三十日
 鴨川市教育員会

<立看板より>

大クスと中門

中門付近の階段を下りると観音堂がある。

観音堂

観音堂は、明治13年(1880)に再興。十一面観音を祀り、安房国札三十四観音の第十七番札所です。

清澄寺境内案内図

千年杉

清澄の大杉の説明看板

清澄の大スギ(千年杉)
 スギは、本来わが国特産の植物で、その分布は本州、四国、九州から南の屋久島に自生するといわれています。巨大なスギは、クスノキ同様、御神木として寺社の境内に多く見受けられます。
 この大スギも、樹令は不明ですが「千年スギ」と呼ばれ、一千年をこえる清澄寺の歴史を物語る霊木とされています。
 樹容は、根廻りの太さ約十七・五メートル、目通りの太さ約十五メートル、樹高約四十七メートルです。この大きさは、国の特別天然記念物に指定されている高知県大豊町八坂神社の「杉の大スギ」と 岐阜県白鳥町の「石徹白の大スギ」にくらべても勝るとも劣らないものであり、植物学上も貴重なものとして、大正十三年十二月九日、国から天然記念物に指定され、その保護がはかられています。
 昭和二十九年の台風により、となりに並び立っていたスギが倒れたとき、南側に出ていた大きな枝が折られ樹容を損ねたことは惜しまれます。
 中心部は腐朽し、基部には空洞があり、祠となっていますが、老大木としては樹勢も良好です。

<立看板より>

信育道場

立教改宗750年を迎えるにあたり、平成11年に建てられ、宗門行事や団体信徒の講習会などに使われています。

報恩殿

道善房追善のために昭和37年に建設され、道善房の尊像を安置しています。

道善房の墓地

日蓮聖人の恩師、道善房のお墓。

この先にも見所があります。

旭が森にある日蓮聖人の銅像までスロープを利用して行けるようになりました。

題目顕彰碑

日蓮聖人銅像

建長五年(1253)4月28日、日蓮聖人は旭が森で初めてお題目を唱え法華経の布教を決意しました。

銅像は大正12年8月30日に建立。平成5年に銅像建立70周年を記念して修復が行われました。

旭が森は本土で一番早く日の出が見れる所です。

日蓮聖人銅像説明文

日蓮聖人銅像
日蓮大聖人 御年三十二歳 建長五年四月二十八日早暁旭日に向い初めて南無妙法蓮華経と御題目をお唱えになった聖地であります 此の聖地に大聖人の銅像建立が発議されたのは大正十一年でありました 當時は未だ真言宗の時代でありましたが時の日蓮宗管長河合日辰大僧正と當寺の住職玉瀧義秀大和尚の微妙不思議とも云うべき意氣の投合からこの問題が急速にすすみ全國より日蓮宗寺院篤信有志の浄財に依って翌大正十二年八月三十日に建立されたのであります
完成して二日後に関東一帯を襲った大震災にも何等の損傷を蒙ることなく厳然として直立し平然として合掌せる尊容は正に生ける大聖人に面奉するが如くであります 傍に立つ記念碑の表裏にこと細かに記されている建立由来及び建立発起霊感略記はまことに感銘深い文章で殊に文末にこの聖像は二度に亘って管長日辰大僧正の夢枕に立ち御告げを授けた虚空蔵菩薩が御自らお造りになられたものと断じておられることは当山に参詣する人々にひとしおの感激をおぼえさせます
聖像はこの山頂に建てられております

<立看板より>

練行堂

慈覚大師円仁が求聞持法を修し、後に日蓮聖人もまた修行された遺跡である。

傍には練行の井戸もあり、この井戸の浄水を浴びて修行する僧俗は絶えなかったとされる。

練行場由来

練行場由来

此処はその昔、若き日の日蓮聖人が身心練磨の為修行された聖跡で古来練行場と云い伝えられております。然るに当寺は徳川時代の初めから真言宗の法脈に属していたため練行場については絶えて顕彰されることがありませんでした。第十五代日蓮宗管長池上本門寺六十八世貫主久保田日亀大僧正は深くこれを遺憾として、この聖地に法華経のご本尊を奉安することを熱望しその浄業の達成を本化居士法運小林幸太郎に懇嘱しました。感激した小林法運居士は、明治四十三年七月登山して此の地で三十七日間止暇断眠の苦行を敢行し、自ら謹冩した十界のご本尊を祀り初志を貫徹したのであります。勿論比間には様々な迫害妨難がありましたが、居士は悉くこれらを克伏して天晴れ久保田日亀管長の負託應えた許りでなく後の大正十二年の日蓮聖人旭ヶ森銅像建立の端緒を開き更には昭和二十四年真言宗を离脱し日蓮聖人正統の宗門に帰属する原因をもなした尊い場所であります。小林法運居士の信仰を継承する人々が報恩会を結成し昭和五十二年練行堂の大改修をされ、目出度く法運居士の板本尊が奉安され今日に至っております。

<立看板より>

見所も多く時間をかけて参拝したいお寺です。

日蓮聖人が、朝日に向かってお題目を唱え、立教改宗の宣言をした旭が森に是非足を運んでください。

となり町の小湊は日蓮聖人誕生の地で、日蓮宗四霊場の一つ誕生寺があるのでセットで巡るのがおすすめ。

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